「人工音声」
- 文と写真 星野 知子|Tomoko Hoshino
- 2024年5月10日
- 読了時間: 5分
更新日:3月22日
テレビニュースで人工音声が増えている。
アナウンサーが「ここからは人工音声でお伝えします」と断りを入れると、コンピューターの作った声にバトンタッチ。ニュース映像の画面の隅に「AI自動音声でお伝えしています」と表示が出る。数年前までは不自然な棒読みだったが、最近はずいぶん聞きやすくなった。
よく聴いている湘南ビーチFMも、人工音声でのニュースが普通になっている。ちょっと前に名前があるのに気がついた。柔らかい発音でよどみなくニュースを伝え終わると、声は名乗った。
「このニュースは株式会社エーアイのふみのいっせいがお送りしました」
ええっ、ふみのさん?と驚いた私だが、なにを言ってるの、もうあたりまえですよ、と笑われた。そういう時代になっているらしいのだ。
ふみのいっせい。「文野一成」さん、だそうだ。名前がつくと急に人格が備わって実在する人のような気がするから不思議だ。文野さんは人工音声のプロダクションに所属している。プロダクションには声質の異なった何人(?)ものバーチャルアナウンサーがスタンバイして、企業や放送局の依頼で派遣されるという。
文野さんたちは、正しい発音で読み間違えることはない。低コストで何時間労働しても疲れない。これではアナウンサーはいらなくなってしまう? そんな心配もされているが、人の声でなければ伝えられない分野は山ほどあるから、共存していくのだろう。
今の人工音声はどうも苦手だ。声に表情がないというか、スーッと流れて内容が頭に入ってこない。人は文章を目にすれば感情が湧いてくるものだ。「天気に恵まれた大型連休は家族連れで賑わいました」と、「行楽帰りの高速道路で玉突き事故がおきました」とを全く同じトーンで話すのは無理だし、不自然だ。息つぎもその人なりの間があってリズムができる。聞く側は無意識に話し手に呼吸を合わせているようなところがあるから、息づかいを感じられないコンピューターの声は脳に響いてこない。
人工音声が気になるのは、私が言葉でずっと苦労してきたからだ。
新潟から上京して大学生活を始めたのが昭和51年。「ふるさとの訛なつかし停車場の~」なんて時代ではなかったが、人混みの上野駅は東北の言葉でザワザワしていた。日本各地から大学に集まってくる新入生はたいていなまっていた。私たちは東京弁をマスターしなければ、と努力したものだ。
新潟はイントネーションが異なるだけでなく、イとエの区別がつかない。「井口さん」か「江口さん」か、聞いただけではわからない。「色エンピツ」は「エロインピツ」でもちゃんと通じる。
故郷の言葉は味わい深い。でも、若かった当時は言葉から東京に順応しようと一生懸命だったようだ。
私は大学の四年間で、すっかり標準語を話しているつもりになっていた。でも――。
大学を卒業した年に、NHKの朝の連続テレビ小説「なっちゃんの写真館」という番組で俳優デビューした。昭和の初めに徳島で生まれ、戦中戦後をたくましく生きた女性の半生だ。

オーディションの最初は朗読だった。ドラマ班のスタッフの前で一分くらいの短い文章を読む。私はそつなく読んだつもりだったが、すごくなまっていたらしい。「あれじゃちょっとねえ、と協議したんだよ」とは、後でプロデューサーから聞いた話。
次の段階に進めたのは、ドラマの舞台が徳島だったからだ。
「セリフが徳島弁だから、まあ大丈夫だろう」
ドラマの舞台が東京や神奈川だったら、きっと私の人生は違っていた。
撮影中、新潟なまりがとれないまま徳島弁の猛特訓をしたものだから、標準語はなおさらあやふやになった。以来、ナレーションや朗読など声の仕事の時は、ぶ厚い「アクセント辞典」が手放せない。「ニュースシャトル」という夕方のニュース番組のキャスターを2年間担当したときは、気になるアクセントを放送直前にアナウンサーに確認してもらった。
プログラミングすればすぐに正しい日本語が話せる人工音声のなんとうらやましいことか。今も発音は北国出身特有で重く、アクセントも微妙に違っている。でも、これが私らしさ。聞きやすく心のこもった文章を伝えることに努めている。
人工音声は暮らしの中に定着している。電話の自動音声システム、カーナビ、ATMは「カードのお取り忘れにご注意ください」と親切だ。東海道新幹線の駅アナウンスも人工音声に切り替わりつつある。駅の騒音の中でも聞き取り易い周波数に処理しているという。それこそ人工音声のなせる技だ。
鎌倉駅の構内放送はどっちだろう。いつもは気にしていなかったが、この前、駅のホームで電車を待っている間、耳をすませてみた。
「まもなく一番線に普通逗子行きがまいります」
うーん、人工音声っぽいけれど、どうかなあ。いくつか聞いているうちに、
「ただいま、東京方面の電車が遅れております。みなさまにはご迷惑をおかけして~」
と駅員さんの声で放送が始まった。大きな抑揚で語尾がちょっと間延びしている。雑音も入っていた。
これだ、これだ。駅はこの声だった。なんだかホッとした。人の声はあたたかな湿り気を帯びていた。
「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」
明治の終わり、石川啄木はお国なまりが聴きたくて駅に行った。百年が過ぎ、駅で人の声のアナウンスを聞き安堵している私。もしかしたら、人の声がどんなにぬくもりがあるか気づかせてくれるのも、今の人工音声の役割かもしれない。
いやいや、そんな呑気なことは言っていられない。もう誰の声でもそっくりのしゃべり方ができるAI音声が開発され、なりすまし詐欺にも使われている時代だ。血の通った声にどこまで近づくのか。期待したいような恐いような。人工音声、どうなっていくのだろう。