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「たばこ」

更新日:3月22日

晴れた朝にベランダで洗濯物を干す。真っ白なシーツが潮風にはためいて気持ちいい。


ときおりパラパラ音を立ててヘリコプターが飛んでいく。手をふればお互いが見えそうに近い。天気のいい日に空から湘南を眺めたら最高だろう。葉山、逗子、鎌倉の海、江の島を巡って富士山も眺められる。


青空を横切るのは、遊覧飛行のスマートなヘリコプター。夏休みの海の賑わいを伝えるテレビ局のヘリコプター。それに、軍用機もよく目にする。低空で飛んでいるから2機、3機と連なるとあたりに轟音が響く。


有事の際には——、とふと思う。どれだけの軍用機が飛び交うことになるのだろう。8月に入るとそんなことを考える。


太平洋戦争のとき、湘南の上空にはたびたび敵機が飛来したという。鎌倉に住んだ大佛次郎の「敗戦日記」には空襲警報が発令されたことや、高射砲声が窓ガラスを震わせたことがひんぱんに記されていて、鎌倉の人たちの恐怖と不安な日々がうかがえる。


私の生まれ育った新潟県長岡市は、1945年(昭和20年)、終戦の年に大空襲で焼け野原となった。ひと晩で市街地の八割が焼け、1488人の命が失われた。パールハーバーを奇襲した山本五十六の出身地だから徹底的にやられた、と市民は思っていた。


私が中学生のころから、母は毎年8月になると空襲のことをぽつりぽつり話した。


1929年(昭和4年)生まれの母は、市内の寄宿舎から女学校に通っていた。戦況が悪化すると勉強どころではなく教室にミシンを並べて軍服を縫った。


「各班に分かれて競争させられてね、一生懸命ミシンを踏んでたんだよ」


8月1日、空襲の夜はサイレンが鳴り響き、B29から町中に焼夷弾が落とされた。


すぐに火は燃え広がり、防空壕に逃げ込んだ多くの人が命を落とした。


母は燃える町を逃げ回り、川にたどり着いた。橋は人でいっぱいで動けない。川は火の海だ。母はとっさに橋の欄干に飛び乗って向こう岸に渡った。


「運動神経が悪かったら、助からなかった……」


戦争のことを話すときは、母は伏し目がちになり、ひとりごとのようにつぶやいた。


山間の村に住む母の親戚は遠く長岡の空が赤く染まるのを見て、もう母はだめだと思ったらしい。みんなで長岡の方を向き手を合わせてお経を上げていたという。


翌朝、学校に戻った母は、同級生たちと担架を手に負傷した人たちを運んだ。病院は機能せず、薬もなかった。仲のよかった友だちの姿が見えず、あちこち探し、道端のトタン板を持ち上げたら、上半身のない遺体があった。モンペの柄で友だちだとわかった。


私にとっての母は、いつも鼻歌を歌いながらご飯を作っている明るいお母さんだった。そんな経験をしていたとは信じられなかった。戦争の小説や映画で涙していた私だが、全く別の衝撃だった。


近所の親しいおとなたちは、誰もが戦争で身内を亡くしていた。空襲の日にたまたま長岡を離れていて、戻ったら家族全員が亡くなっていた人。赤ちゃんを背負って火の中を走り、気がついたら赤ちゃんが息をしていなかった人。毎日あいさつし、私に笑いかけてくれる人たちだ。ごく普通の暮らしが私の周りで営まれていて、戦争の話が耳に入ることはなかった。


「もはや戦後ではない」と宣言した経済白書が発表されたのが1956年(昭和31年)。私はその翌年に生まれている。物心ついたころには街に空襲の痕跡はなかった。駅前の大通りはデパートがいくつもあって人で賑わっていた。ただ道を一本入ると闇市だった一角が残っていたし、時々傷痍軍人の姿を見かけることもあった。


長岡の人たちは戦争を振り返らず、前を向いて進もうとしていたのだと思う。子どもの私にはわからなかったが、あのころ戦争はまだ過去になっていなかった。


父は戦争の話を一切しなかった。母や親戚からなんとなく聞いただけだ。


父は6人兄弟の末っ子で、年の離れた長兄がフィリピンで戦死している。残された写真を見ると、がっしりした体格で額のあたりが父と似ている。


毎年お盆にお墓参りするとき、父は必ずたばこを持って行った。お墓の前でたばこに火をつけ、ひと息吸ってから線香皿に置いた。お線香の煙とたばこの煙が混じって空にのぼっていった。


今から30年ほど前、私はテレビ番組の取材でフィリピンのネグロス島に行くことになった。父は「むこうでたばこを一本、くゆらせてくれないか」とセブンスターをひと箱私に渡した。父の兄が亡くなったのはネグロス島だった。


フィリピンの密林と海の写真。
フィリピンの密林と海

ネグロス島はフィリピンで四番目に大きな島で、深い緑の山々が島を覆っている。多くの日本兵が敵の攻撃から山に逃れ密林の中で命を失った。


仕事を終えて、夜、ホテルの部屋のベランダに出てたばこに火をつけた。私はたばこを吸わないが、父と同じようにひと息吸って灰皿に置いた。


会ったことのないおじさん。戦争から戻ったら結婚する許嫁がいたおじさん。体の弱い末っ子の父を心配していたというおじさん。遠く離れたこの島で餓死したおじさん。


ゆっくりと、たばこの煙は夜の闇に消えていった。闇の向こうには黒く深い密林——。父の思いは届いただろうか。


戦争のことを「語った人」も「語らなかった人」もいる。


どちらの人も心に深い傷をかかえて生きてきた。戦後79年が経ち戦争を知っている人は少なくなり、私の両親もいなくなってしまった。


戦争のない平和な世の中を願い、懸命に私たちを育ててくれた人たちと社会に感謝する。


去年93才で亡くなった母は、テレビニュースで攻撃されるウクライナの映像を見ると「戦争はだめだよ、戦争はだめだ」と目を伏せてつぶやいていた。昔、長岡空襲のことを話したときと同じ、心が遠くを漂うような表情だった。


「もはや戦後ではない」という言葉が、別の意味で胸に響く。


今が戦前になりませんように。


湘南の空を爆撃機が飛び交いませんように。

星野知子が描いたカタツムリのイラスト

Maison d’un Limaçon

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