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「雨傘」

更新日:3月23日

ムシムシ、ジメジメ、そろそろかなあという時期になると、スーパーやドラッグストアでは湿気対策グッズが山積みになる。梅雨入り間近。顆粒状の除湿剤や「水がたまったらおとりかえ」の容器タイプ、引き出し用のシートタイプ。様々な種類の商品は、東京の店よりずっと数が多い。みんな苦労しているのだ。


鎌倉は湿度が高いとは聞いていたが、これほどまでとは思っていなかった。海から入る潮風と、谷戸の湿気がこもりやすい地形のせいだろうか。引っ越してきたころ、梅雨の終わりに下駄箱を覗いて目を疑った。スニーカーにカビが生えている。大切なハイヒールも白いフワフワしたものが……。湿気に強い家作りをしてもらったが、それでも連日80パーセントを越える湿度には太刀打ちならず。その年以来、梅雨前に下駄箱やクロゼットを念入りに掃除して、湿気取りをあちこち大量に設置。準備万端整えて梅雨入りを待つことにしている。予報では、今年の梅雨入りは平年並みだが、梅雨明けは遅いという。湘南の住民の湿気との闘いは長くなりそうだ。


梅雨の日常は住んでいる人にしかわからないもの。紫陽花を見に訪れる人たちは、雨が降ってもがっかりしないようだ。「梅雨の鎌倉」はしっとりと風情があって、紫陽花の色が鮮やかになる。私も梅雨時に町中を歩くのは好きだ。傘で前がさえぎられるから、自然に下の方に目が行く。お寺の石段は濡れて趣を増し、道ばたの草花はしずくまで美しい。傘をさして楽しそうに歩く観光客たちとすれ違うと、ね、鎌倉の雨はいいでしょう、と声をかけたくなる。


ヨーロッパやアメリカでは雨が降ってもあまり傘をささないと言われている。少しくらいの雨なら濡れても平気、大雨の時は出かけない、らしい。湿度が低いからすぐに乾くし、傘を持つのが面倒だというが……。確かにロンドンでもパリでも傘をさしている人はほとんどいなかった。


日本は、梅雨時の傘売り場が賑やかになる。傘はファッションのひとつ。色や柄、機能も充実している。ワンタッチで開く、晴雨兼用、軽量、超軽量、透明のビニール傘もサイズが選べる。憂鬱な梅雨を少しでも快適に過ごそうと前向きな気持が表れている。それに、私たちは傘が好きなのかもしれない。


雨の日の鎌倉・小町通りで雨傘をさして歩く人々。
雨の日の小町通りにあふれる雨傘

あるとき、浜辺を散歩していたら、欧米人らしき家族が不思議そうに足元を見ていた。砂には相合傘が描いてあった。


鎌倉の砂浜には時々相合傘の落書きが残っている。デートで浜辺を訪れて、並んで海を眺めればロマンチックな気持ちになるというもの。細い流木で三角の傘を描き、ふたりの名前を書いてみる。どうかこの恋がうまくいきますように。ふたりが去っても、ときめきは砂浜に残ったまま。おなじみの落書きだ。


声をかけられたので、簡単に意味を説明した。観光で来たという人たちは、カップルが思いを込めて描いたものと知って大きく頷いたが、「はあ、これは傘なんですね?」「アメリカでは見たことがありません」。やっぱり不思議そうだ。なぜ傘なの?そう聞かれたら、私は日本語でも説明できなかっただろう。


落書きの相合傘は、どうやら日本特有の文化らしい。


そういえば——。相合傘で私が思い浮かぶのは、浮世絵だ。浮世絵には相合傘の作品がたくさんある。たいていは訳ありの道行きらしく、どの絵も哀愁がただよっている。


中でも有名な鈴木春信の「雪中相合傘」は、私も好きな作品だ。雪道を、番傘をさし寄りそって歩く男女。傘の下のふたりは愁いを帯びた表情だ。女はうつむき加減で、男はふと女に視線を送る。一見男女のようだが、中性的に描かれているので女同士にも男同士にも見えてくる。抑えた色合いの装束に、背景は雪をかぶった木が1本だけ。シンプルで謎めいた絵だ。どういうふたりなのだろう。これからどうなるのだろう。想像力をかき立てられる。この作品から傘を消してしまうと——。作品の緊張感は薄れ、ふたりの間の濃密な気配は失われる。


傘の内側は特別な空気が満ちている。ふたりだけの世界だ。一途な想いとあやうさと、秘めた情熱が閉じこめられている。傘がなくては成り立たない作品だ。


浮世絵のそんな詩情を感じとれるようになるずっと前、子どものころから私たちは相合傘を描き、目にしていた。定番は学校の黒板やトイレの壁。誰かが描いた落書きに、どきっとしたりからかったり。たわいなく盛り上がった。部屋の窓にホーッと熱い息を吹きかけ白く曇ったガラスに傘を描くことも。片方に自分の名前を書いて、もう片方にはちょっと気になる男の子の名前。すぐに照れて手のひらで消したりして。そのころから、なんとなく傘の下の特別な空気を意識していたのだろう。


最近は相合傘の落書きを知らない子どもたちが多いそうだ。恋する若者も小学生も共通の、ちょっとした秘密のおまじない。受け継いでもらいたいなあ。


訳ありの道行きやロマンチックな恋人たちでなくても、ひとつの傘にふたりで入ることはある。


夫婦で傘がひとつしかないときは相合傘をするしかない。私も夫も普段は早足で自分のペースで歩く。散歩でもブラブラではなくテキパキといった感じだ。


相合傘のときだけは濡れないように肩を寄せ合って、自然に私の手は傘を持つ夫の腕につかまる体勢。そして、やはりテキパキ早足で進んで行く。まるで運動会の二人三脚のよう。

いち、に、いち、に、とかけ声はかけないが、呼吸はぴったり合って傘が揺れたり足どりが乱れたりしない。頭上の傘を打つ雨音を聞きながら思う。いつ頃からこんな息の合った歩き方ができるようになったのだろう。一本の傘で、夫婦の年月と歩みを感じるこの頃だ。


さあ、梅雨時。鎌倉で見かける海外からの旅行者は傘をさしている人が多い。日本の雨には傘が必要だし、よく似合う。


誰が考えたか「傘の花が咲く」。好きな言葉だ。これからのうっとうしい日々、みんなの雨傘で明るくからりと過ごしたい。

星野知子が��描いたカタツムリのイラスト

Maison d’un Limaçon

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